ラッセルに学ぶ幸福論【不幸から這い上がるための哲学】

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「完璧な人生を送った人の助言」では、私たちの心には届かない。
けれど、「一度は生きる希望を失い、そこから這い上がった人の言葉」ならば、
私たちにとって希望になりうる。
ラッセルが後年に記した『幸福論』とは、まさにそういう本だった。
哲学者としての理屈ではなく、
「一人の不幸な男が、どうやって自分を救ったか」の記録だったのだ

この記事で分かること

ラッセルとはどんな人?
自分が不幸と感じる要因は?
幸福を感じるための考え方

第一部:偉大なる知性の人生 – 貴族から哲学者への軌跡

セクション1

幼少期

厳格な祖母に育てられる。
感情を抑える生活。

11歳

幾何学と出会い、「真理がある」と初めて思えた。

大学時代

名門ケンブリッジ大学で数理哲学に没頭。

30代

知ることから
「生きること」へ関心が移る。

40代

第一次世界大戦に対して、反戦運動を行う
反戦活動で投獄
政治と道徳に関心を移し始める。

高齢期

『幸福論』刊行
ノーベル文学賞を受賞(哲学と人道主義における業績)
アインシュタイン=ラッセル宣言を発表

「私の人生は、3つの情熱によって支配されてきた。
愛への憧憬、知識への探求、そして人類の苦悩に対する耐え難いほどの同情である」

これは、20世紀最高の知性の一人とされる
バートランド・ラッセル(1872-1970)が自伝の冒頭に記した言葉です。
ラッセルは英国の名門貴族の家系に生まれました。
ラッセルの祖父ジョン・ラッセルはイギリスの首相を務めており、
私たちが想像する貴族そのものなのでしょう。

また、ラッセル自身はノーベル文学賞を受賞し、数学、哲学、政治、そして平和運動にその名を刻んだこの偉大な人物であり、誰から見ても「すごい人」という感想を持たざるを得ないでしょう。
しかしそんなラッセル自身、若い頃は自殺願望をずっと抱いていたそうです。

ラッセルは、3歳で母と姉を病気で亡くし、6歳で父も失った。
天涯孤独となった彼を育てたのは、厳格な祖母だった。
この祖母が彼に与えたのは、「善く生きよ」という道徳教育だった。
だがそれは、まるで修道院のような生活だった。

毎朝、冷たい水風呂に入れられ、
感情を抑えるようにしつけられ、
喜びや欲望に手を伸ばすことは、恥であると教え込まれた。
ラッセルは、大人になって振り返る。
「私は、長い間、死の誘惑と戦っていた」

そして、孤独な少年が初めて「美しい」と感じたもの
──それは11歳で出会った幾何学でした。

論理の整合性と確実性に心を奪われ、「この世界には真理がある」と思えた瞬間でした。
彼はその一筋の希望にすがるように学び、やがて名門ケンブリッジ大学に進学。
数学に没頭しながらも、「真理は数式だけでは語れない」と気づいたラッセルは、
次第に哲学の問いへと引き寄せられていきます。

そして30歳を過ぎた頃、彼の関心は
「知ること」から
「生きること」
へと変わっていきました。

【Coffee Break】絶望と怒りの果てに、生まれた希望

ラッセルは、第一次世界大戦という時代に直面しました。
若き日の彼が抱いていたのは、「理性と知識が人類をよりよい方向に導くだろう」という、
どこか牧歌的な希望でした。ところが、1914年──
ヨーロッパ中が戦争へと雪崩れ込んでいく様を見て、ラッセルはその信念を打ち砕かれます。
彼の周囲の知識人たち──敬意を抱いていた学者たちまでもが、祖国の戦争を賛美し、
若者たちが前線へと駆り出されていくのを「名誉あること」と呼び始めたのです。
ラッセルは、絶望しました。
「知性は、戦争の熱狂の前に、こんなにも簡単に崩れるのか」と。
そして彼は、初めて「哲学は象牙の塔に籠っていてはならない」と痛感します。
理屈のための理屈ではなく、人間の生を守るための哲学
──その必要性に目覚めたのです。
戦争に反対するラッセルは、猛烈に孤立しました。ケンブリッジ大学の教職を追われ、
罰金刑を受け、ついには投獄されます。
けれど彼は、沈黙しませんでした。獄中でもラッセルは書き続けました。
「人はなぜ理性を捨て、憎しみに身を委ねるのか?」
「どうすれば、個人が世界とよりよい関係を築けるのか?」
その問いが、やがて『幸福論』につながっていきます。
つまりこの本は、「絶望から生まれた思想」なのです。
戦争と孤独という暗闇の中で、ラッセルは希望を探しました。
それは、どこかで読者である私たちの心にも重なるのではないでしょうか。

第2部:何があなたの不幸を生み出すのか

セクション2
ラッセルの『幸福論』前半は、徹底的に「不幸」の分析に費やされています。
彼は不幸の本質を──
自分への過剰な意識
にあると指摘しました。

自分への過剰な意識

周りが正しく見えていない。
うらやましく、キラキラした部分だけが見えてしまう。

欲望・嫉妬

他人と比較して、「あの人は持ってる、自分はない」と感じる。

自己否定・不幸感

自分を責める。「どうして自分はダメなんだろう」と感じてしまう。

全てを欲しがる

もっと、もっと、全部が足りない。
何を得ても満たされず、常に渇望してしまう。

私は、自分に関心を持つのをやめたとき、初めて幸せになった。
自分の外に目を向けるようになったとき、人生は突然色彩を取り戻した。
不幸とは、しばしば“自己への執着”という名の牢獄に他ならない。

ラッセルにとって幸福とは、単なる感情の状態ではありません。
それはむしろ、“注意の向け方”です。
不幸な人の多くは、心の矢印がいつも「自分」に向いています。

自分の感情、自分の失敗、自分の人生の意味……。
そんなふうに、自分ばかりを見つめていると、
世界の広がりは見えなくなってしまいます。

ラッセルが語る幸福は、その真逆にあります。
自我の殻を破り、外の世界に関心を持つこと。
他人の暮らしに関心を持ち、社会の動きに目を向け、
知識や自然に好奇心を抱く――
そうした「自己からの脱出」こそが、彼にとっての幸福の出発点です。

他人への嫉妬、ナルシシズム、完璧主義――
こうした苦しみもまた、自己への執着から生まれます。
他人の成功を自分と比較して劣等感を抱いたり、
自分をよく見せようと過剰に演じたり。
意識が「自分」に偏りすぎると、不幸は深まっていくのです

そして、ラッセルはこうも言います。

人生の困難の多くは、過剰な欲望と視野の狭さから来ている。
すべてを手に入れようとする者は、つねに欠けているものを数え、
何かを諦めた者だけが、本当に価値あるものを手にできるのだ。

現代は、選択肢の時代です。
SNSを開けば、他人の“幸福のサンプル”が無数に流れ込んできます。

「もっと自由な働き方」
「もっと素敵な暮らし」
「もっと愛される私」
──そんな“可能性”の洪水の中で、
私たちは気づかぬうちに「持っていないもの」に目を奪われ、
不幸の感覚を育ててしまいます。

ラッセルが語るのは、そうした欲望の罠から距離を置き、
「何を持たないか」を選ぶという姿勢です。
欲望を無限に広げるのではなく、
本当に意味のあるものに集中し、あとは潔く手放す。

それは諦めではなく、“成熟の選択”です。
ラッセルにとっての幸福とは、
成功者になることではありません。

自分中心の視点から抜け出し、他者や世界との関係の中で生きること。

それは、SNS疲れや完璧主義に悩む現代の私たちにとって、
静かで力強い処方箋でもあります。
この思想は、古代ローマの皇帝であり、哲学者マルクス・アウレリウスの『自省録』とも通じています。
選択肢が多い今だからこそ――
「何を選ばないか」を意識することが、幸福への道を照らす

【Coffee Break】哲学の“つながり”を楽しもう

ラッセルは、「自分への執着」が不幸を生むと語りました。
一方で、同じく“幸福論三巨頭”のひとりアランは、
「何もしないことが人を不幸にする」と言います。
アランの言葉を借りれば、
「人間は放っておくと自然と不機嫌になり、悲観的になる」
何もしない状態では、意識が内側へと閉じていき、
やがて自分ばかりを見つめ、周囲が見えなくなってしまう――。
その結果、悲観に陥るというわけです。
哲学者ごとに語り口は異なっても、
その根っこでは繋がっているのではないでしょうか?
「自己から抜け出すこと」こそが幸福の鍵だという点で、
ラッセルとアランはしっかり手を結んでいます。
哲学書を読む醍醐味は、こうした“違いとつながり”を見つけることにもあります。

第3部:「私」を超えた幸福の発見

セクション
ラッセルの『幸福論』が後半に入ると、その語り口は少しずつ変化していきます。
前半では「不幸を避けること」が中心でしたが、
後半では「幸福を選ぶこと」へと主軸が移っていきます。
そして彼がたどり着いた結論は、
予想を超えるほど壮大なスケール
のものでした。

宇宙規模で考える

人間が真に偉大になるのは、
自分という存在を、宇宙の全体とつながったものと感じるときである。
幸福とは、そうした心の広がりと調和の中にある。

これはまさに、ラッセル哲学の核心にある魅力です。
幸福とは、「自己を完成させること」ではなく、自己を超えた広がりの中に宿る。
その広がりとは、なんと「宇宙」なのです。
ラッセルは、個人の幸福を宇宙的スケールにまで接続させます。

私たちが抱える悩みや不安も、宇宙という全体性の中に置き換えれば、
どこかちっぽけで、取るに足らないものに思えてくる。

もちろん、それを日々の中で実感するのは簡単ではありません。
けれど彼は、そこに向かうための「足場」もいくつか残してくれました。

他者の幸福を考える言葉

ラッセルが人生の晩年に至って辿り着いた、もうひとつの大切な気づき。
それは、「他人の幸福と自分の幸福は、切り離されたものではない」ということです。

私が本当に幸福だったのは、
個人の幸せを超え、人類の未来を考えるようになってからだった。
そのとき私は、初めて完全に孤独ではなくなった。

彼はやがて、戦争や暴力に反対する活動に身を投じます。
90歳を過ぎても、抗議行動のために逮捕されることを恐れませんでした。
その原動力は、「共感」でした。

他者の幸福を思うこと――
それは、心の器を広げる行為です。

誰かの喜びや痛みに共鳴したとき、
私たちは「私」という囲いを超え、より広い視点に立つことができます。
そしてそのとき、
幸福は自分だけのためにあるものではなくなり、
“ともに生きる”中で感じられるものへと変化していくのです。

終わりに

結論

私たちは、宇宙の市民である。

この言葉は、耳慣れていて、けれど本質に触れている。
幸福とは、ただ自分だけのためにあるものではない。

それは、自分を含む「誰か」とともに感じる静かな光のようなものだ。
遠い星々が、互いに輝きを分け合って夜空を形づくるように、
私たちもまた、誰かの幸せの中に自分を見つけることができる。
そんなとき、世界はほんの少しだけ、やさしく見える。
そして、私たちもまた――
確かにこの宇宙の一部なのだと、思えるのかもしれない。
今日、誰かひとりでもいい。あなたの“外側”にいる人に、
少しだけ心を向けてみてください。
それが、あなたを救う最初の一歩になるかもしれません。

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