立ち止まっている君へ:自由という名の、重い贈り物
ねえ、今、立ち止まっていませんか?
「自分らしく生きる」とはどういうことだろう、と。
私たちは皆、人生のどこかで、自分が何者なのか、何のために生きているのか、という根源的な問いにぶつかります。まるで、設計図のないまま、この世界に放り出されたかのように。
その不安、その虚無感、それは決して病ではありません。
むしろ、それはあなたが人間であることの、最も純粋な証なのです。
今日、私たちは一人の偉大な思想家の言葉を通して、その不安の正体と、そこから生まれるべき「生きる力」を探ります。彼の名は、ジャン=ポール・サルトル。
彼が私たちに残した哲学は、時に冷酷なほどに真実を突きつけますが、最終的には、私たちに 「生きる勇気」を与えてくれる、最も力強いメッセージなのです。
カフェの片隅で世界を揺るがした男
ジャン=ポール・サルトル(Jean-Paul Sartre)。
20世紀半ば、第二次世界大戦後のパリ。破壊と混乱の中から立ち上がろうとする時代に、彼は彗星のように現れました。
彼は、知的な巨人でありながら、常に大衆の中にいました。サン=ジェルマン=デ=プレのカフェ「ドゥ・マゴ」や「フロール」の片隅で、彼は熱心に書き、語り、そして生きました。
生涯の伴侶シモーヌ・ド・ボーヴォワールとともに、彼は時代を象徴する存在となり、その思想は文学、政治、そして人々の日常にまで深く浸透していきました。
彼の哲学の核心は、たった一つの、しかし圧倒的に重要なフレーズに集約されています。
「実存は本質に先立つ」
この言葉こそが、私たちが抱える自由と不安、そして責任のすべてを解き明かす鍵となります。
「実存は本質に先立つ」とは、どういうことか?
少し、難しそうに聞こえますか?大丈夫、一緒に考えてみましょう。
まず、「本質」と「実存」を、一つの道具に例えて考えてみます。
たとえば、ペーパーナイフ。
ペーパーナイフは、誰かが「紙を切る」という目的(本質)を思い描き、その目的を果たすために設計され、製造されます。つまり、本質(目的)が先にあり、実存(現実に存在すること)が後からついてくる。
では、私たち人間はどうでしょう?
サルトルは言います。人間は、ペーパーナイフのように、あらかじめ設計図を持って生まれてくるわけではない、と。
私たちは、ある日突然、この世界に「投げ込まれます」。まず、何の目的も定義もされないまま、存在(実存)する。
そして、生きていく中で、行動し、選択し、経験を積み重ねることで、「自分とは何者か」という本質を後から作り上げていくのです。
あなたは、生まれた時点では「〇〇である」と決まっていません。あなたは、あなたがこれから行う選択の総和によって、あなた自身を創造していくのです。
これが、「実存は本質に先立つ」という、サルトル実存主義の根幹です。
自由という名の、避けられない重荷
この思想が意味することは、私たちの人生において、計り知れないほどの「自由」が存在するということです。
あなたを定義する神も、運命も、生来の役割もありません。
「私はこういう人間だから」
「これは親のせいだ」
「環境が許さない」
そう言って、私たちは自由から逃れようとします。しかし、サルトルは容赦なく宣言します。
人間は自由を宣告されている。
私たちは、選択しないという選択すら、自由に行っています。私たちは、生きている限り、常に「次の自分」を決定し続けているのです。
この自由は、最高の贈り物であると同時に、恐ろしい重荷でもあります。
なぜなら、あなたの選択に言い訳がきかないからです。あなたが今、何かを成し遂げていないとしたら、それは「あなたがそう選んでいる」からです。
この自由の重さ、選択の責任に直面したとき、私たちは「不安」を感じます。サルトルが言う「不安」は、ネガティブな感情というより、自由の自覚から生じる、人間特有の感情なのです。
アンガージュマン:行動への投企と全人類への責任
自由と責任は表裏一体です。
サルトルは、私たちが自分の人生を選ぶとき、単に自分自身のためだけに選んでいるのではない、と考えました。
あなたが「正直である」という生き方を選ぶとき、あなたは同時に「人間は正直であるべきだ」という価値観を、全人類に向けて提唱していることになります。
あなたの選択は、あなたという個人の枠を超え、「人間性」のモデルを作り上げている。
この、選択に伴う重い責任を自覚し、世界に対して積極的に関わっていく姿勢を、サルトルは「アンガージュマン(Engagement)」と呼びました。
「関わりを持つこと」「投企(投げ込むこと)」という意味です。
私たちは、ただ漠然と生きるのではなく、自分の選択と行動を通じて世界に「コミット」しなければならないのです。
不安は行動を麻痺させるものではありません。むしろ、不安こそが、私たちが行動を起こす動機となるべきなのです。
他者の眼差し:人間関係の難しさ
私たちは、一人で生きているわけではありません。常に他者と共にいます。
サルトルは、人間関係の難しさについても深く考察しました。特に重要なのが「他者の眼差し」です。
考えてみてください。あなたがカフェで本を読んでいるとしましょう。そこに誰かが入ってきて、あなたを見つめます。
その瞬間、あなたは「本を読んでいる私」という、他者から定義された「客体(モノ)」になります。
あなたがどれほど自由でいようとしても、他者の視線は、あなたをある役割や定義に固定してしまうのです。
サルトルは、人間関係の究極の形を「争い」と表現しました。なぜなら、お互いが「自由な主体」であろうとするとき、必ず相手を「客体」として固定しようとするからです。
有名な言葉があります。
「地獄とは他人のことだ」(『出口なし』より)
これは、他者がいなければ自由になれるという意味ではありません。そうではなく、他者の眼差しから逃れられないこと、そしてその眼差しの中で常に自分を証明し続けなければならないことが、私たちの存在を苦しめる、という意味です。
しかし、絶望しないでください。
他者の眼差しに怯えるのではなく、その眼差しの中で、「それでも私は、私自身で選ぶ」という決意を貫くことこそが、実存主義的な生き方なのです。
現代社会における「実存の哲学」
サルトルの哲学は、現代を生きる私たちに、具体的な知恵を与えてくれます。
1. 「理想の自分」という幻想を捨てる
SNSやメディアは、私たちに「こうあるべきだ」という本質的な型を押し付けてきます。「成功者とは」「幸せとは」といった定義です。
私たちは、その型に自分を合わせようとして苦しみます。
しかし、思い出してください。あなたは、まず存在します。そして、理想の型を探すのではなく、今、この瞬間の行動で、あなたの本質を作り上げていくのです。
「自分らしさ」は、見つけるものではなく、創り上げるものです。
2. 選択の麻痺から抜け出す
現代は選択肢が多すぎます。キャリア、パートナー、趣味、住む場所…。私たちは「間違った選択をしたらどうしよう」という不安に囚われ、行動できなくなります。
サルトルは、間違いという概念自体を揺さぶります。
あなたが選んだ道が、あなたの道です。その道が正しくなかったとしても、それはあなたの選択であり、あなたはいつでも次の瞬間に、新しい選択で自分自身を再定義できるのです。
行動しないことは、自由の放棄であり、最も大きな責任逃れです。
3. 誠実さ(マウヴェーズ・フォワ)を避ける
サルトルは「自己欺瞞(マウヴェーズ・フォワ:悪い信仰)」を批判しました。
これは、自分の自由と責任を認めず、「私はそうせざるを得なかった」とか「私は生まれつきこうだ」と、自分自身をモノのように扱うことです。
あなたは、状況や役割の奴隷ではありません。
辛い状況にあるときこそ、「私はこの状況の中で、何をどう選択するか」と自問してください。あなたの現状は、過去の選択の結果であり、未来は今のあなたの選択によってのみ開かれます。
自由という名の、光の中で
サルトルの哲学は、私たちに慰めを与えてはくれません。
むしろ、その重い真実を突きつけます。「君の人生は、君自身の責任だ」と。
しかし、この重さの裏側には、途方もない希望があります。
それは、あなたが、他の誰でもない、あなた自身の創造主であるということです。
もしあなたが今、人生の目的を見失っているとしても、それは悪いことではありません。それは単に、あなたの設計図が、まだ完成していないだけなのです。
不安を抱えながら、それでも前に進むこと。
他者の眼差しの中で、それでも自分自身の選択を貫くこと。
あなたの人生は、あなたが行動し、投企(アンガージュマン)することによってのみ、意味を持ち始めます。
さあ、立ち上がろう。自由は、重いけれど、輝いています。
あなたには、あなた自身を、そして世界を、新しく創り直す力が、常に備わっているのですから。


