「本当の自分」って、どこにいるんだろう?
ある日ふと、こう思うことはありませんか。
「これが私らしさなのかな?」「本当の自分って、何だろう?」
誰かに「あなたって、〇〇な人だよね」と言われたとき、
「そうかもしれない」と思ったり、
「いや、それは違う」と、妙に反発したくなったり。
でも本当は、どちらも少し苦しいのです。
なぜなら私たちは、「本当の自分」がどこかにあって、
それをうまく見つけられずにいるような気がしてしまうから。
けれど、哲学者ジャン=ポール・サルトルは、
そんな悩みに一つの答えを示しました。
言い換えれば、
“本当の自分”なんて、もともと決まっていないのです。
とりあえずまず先に、自分という存在があって、
それがどんなものか(本質)は、まだ決まっていない。
だから「本当の自分」は探して見つかるわけじゃない。
だってそもそも、まだ決まっていなんだから。
創っていくしかない。
本当の自分は、“見つけるもの”ではなく、
“選び続けた先に、少しずつ形になっていくもの”なのです。

- 実存主義
- 斜視(右目)
- ノーベル章を辞退した最初の人物
この記事で分かること
──そんな問いを、サルトルの哲学と一緒に、静かに考えていきます。
私自身、考えすぎてしまって、自分とはどんな人なのか、
優しいのか、優しいフリをしているのか、ひとりが好きなのか、孤独が嫌なのか、
こんな風に自分でも収集がつかないほど悩みが広がっていました。
でも、サルトルの言葉と考えで少し答えが見えてきました。
だから、あなたの悩みも半分くらいにはなりますように。
第1章|「あなたって〇〇だよね」に縛られてしまう理由
「あなたって、真面目だよね」
「ちょっと変わってるよね」
「空気読まないタイプだよね」
そんなふうに、他人から“自分像”を決められたこと、ありませんか?
どこかひっかかる。でも、なんだか合っている気もする。
気づけば、「私って、そういう人間なのかもしれない」と思い始めていた。
でも──
その瞬間、「自分とは何か」が、他人の言葉に奪われているのです。
「地獄とは、他人である」
このように他人が自分とは何かを容赦なく決めてくる。
そこであの有名な名言が飛び出します。
これは、「他人が悪い」という意味ではありません。
他人の視線が、私たちを“モノ”として決めつけてしまうこと
それが、地獄のように苦しいと言っているのです。
例えば、あなたが自分なりに自由に生きようとしていても、
誰かが「君はこういう人間だ」と決めつけてくる。
その瞬間、自分の輪郭が他人の言葉で固定されてしまうのです。
心理学でいう“ピグマリオン効果”
このサルトルの言葉は、心理学的にも裏づけがあります。
それがピグマリオン効果
「周囲からどう見られているか」によって、人の行動や自己認識は変わってしまう。
例えば、
先生に「あなたはできる子だ」と言われ続けた子どもが本当に成績を上げるように、
私たちは他人にかけられた“期待”や“レッテル”を、無意識に演じてしまうのです。
つまり、「あなたって〇〇だよね」という一言は、あなたの内側にまで侵入してくる。
私自身、「あなたってひとりが好きだよね」
と言わることがあります。
だから、
「私が話しかけたら、ひとりが好きなのに無理してるとか思われるのかな、、」
「今日はテンション高いのかな」
とか勝手に
「自分はひとりが好きなんだから、ひとりが好きムーブ以外は変に思われるかも」
と考えてしまいます。
でも、私自身、ひとりも苦手ではないけど、誰かと話すことが好きなんですよね。
まさに私たちは他人の言葉に縛られてしまうのです。
そもそもなんで、自分で自分を決められないのでしょうか?
第2章|なぜ人は「自分とは何か」を決められないのか
自分とは何か
この問いは、あまりにも素朴で、あまりにも根深いです。
けれどその問いに、明確な答えを持っている人は少ない。
それどころか、人はなぜ“自分で自分を定めること”がこんなにも難しいのか。
その理由を、ジャン=ポール・サルトルは一言で言い表しました。
ハサミという道具を考えるとわかりやすいです。
ハサミは「紙を切る」という目的が先にあり、その目的にかなう形で作られている。
つまり、“何のためにあるのか”があってから、その存在が与えられる。
けれど人間は、違います。
人は何のために生まれてきたのかが、あらかじめ決まっていない。
役割も、意味も、誰かに与えられてはいない。
まず、存在してしまう。
意味を持たずに、ただ生まれてきてしまう。
そこからどう生きるか、どんな人間であるかを、自分で選び続けなければならない。
これがサルトルの言う「存在は本質に先立つ」という言葉の意味です。
だけど、選ぶという行為は、想像以上に困難です。
だからこそ、
「自分とはこうだ」と、何か確かなものにすがりたくなります。
そのとき、他人の言葉が手近な「答え」として現れる。
「あなたって、こういう人間だよね」
「もっと〇〇らしくした方がいい」
「それは君らしくない」
そう言われたとき、あなたは、つい思ってしまう。
──そうなのかもしれない。
ただ、忘れてはいけないことがある。
人間の“本質”は、生まれながらに与えられているものではない。
誰かの言葉で完全に規定されるようなものでは、そもそも存在しない。
だからこそ、他人の言葉を「絶対的な基準」にしてしまう必要はない。
ある時期には「そうかもしれない」と思ったとしても、
それが変わっていくことを恐れなくていいのです。
意味は、生まれたあとに与えられるもの。
人は、自分の本質を生きながら創っていく存在なのだから。
こんな私たちに対してサルトルは言いました。
本質が与えられていないからこそ、
人は自由に生きられる。
もっと言うと、自由に生きなければならない、という刑に処されている。
つまり、自分がどんな人間であるかは、
“思うこと”でも、“言われること”でもない。
何を選び、どう生きたか
──自分で自由に選べる。いや、自由に選ばざるを得ない。
「自由の刑」ですから、肯定的とは言えない。
だけど、自分の本質を自由に創っていける、というのは
あなたにとっても、とても素晴らしいことだと思いますよ。
次の章に進む前に少し、休憩しましょうか。
【Coffee Break】
ここで少し、サルトル自身の話をしておきたいと思います。
難解な哲学のイメージとは裏腹に、彼はとても人間らしく、
そして少し驚くような一面を持っていました。
サルトルは、身長157センチ。片目は斜視。
現代でもそうですが、当時のフランスでも外見的に「魅力的」とされる要素からは、
やや遠い存在だったかもしれません。
実際、周囲の人々からは「ちびでさえないやつ」と言われることもありました。
けれど、サルトル自身は、そうした声に自分を明け渡すことはありませんでした。
「他人が何を言おうと、自分の本質は自分で決める」
その信念のもとに、哲学を書き、語り、人生を行動によって選び抜いていったのです。
そして面白いのはここからです。
そんなサルトルが
──実はかなりモテた、という事実です。
彼は、生涯のパートナーである
シモーヌ・ド・ボーヴォワールと事実婚のような関係を結びながら、
それ以外の女性たちとも自由に親密な関係を築いていったことで知られています。
しかもそれは、隠れてこそこそと…というものではなく、
彼の生き方として、オープンに、誠実に関係性を重ねていたのです。
この話が伝えてくれるのは、
「見た目や肩書きではなく、その人の在り方こそが、人を惹きつける」ということかもしれません。
他人からどう見られるかではなく、
自分がどうありたいかを選び、実際にそう生きていくこと。
それが、サルトルという“矛盾に満ちた”存在を、世界に残るほどの強さへと変えていったのです。
第3章|「どうあるのか」ではなく「どうありたいか」
「自分の考えていること」と「自分のしたこと」
あなたはどっちが「自分」という存在を形作ると思いますか?
人に優しい行動をしたけど、心の中では打算まみれだった。
だから、私は優しくはない、そう考えますか?
けれど、サルトルはこう言います。
つまり、どんなに複雑な感情や思考があったとしても、
その人を形づくるのは、「何を考えたか」ではなく、
「どう行動したか」なのだということです。
私は前の記事で、本当の私は冷たく優しくない人間だと思っていると言いましたが、
優しい行動をしていた私は、ちゃんと優しい人間だったというわけです。
ちょっと嬉しいですね。
だからこそ、私はあなたに伝えたいことは、
自分がどんな人なのか、今の自分がどうあるか
を考えるのではなくて、
「どうありたいか」を考え、その願いに向けて行動していくこと
があなたを作っていく。
人は、与えられた枠にはまるようにはできていません。
だからこそ、思い描いた「ありたい自分」に近づくことも、
過去の選択から離れていくことも、誰にでもできるのです。
思考は、心の中で何度でも揺れてかまいません。
でも、どの方向に歩いたかが、今の自分を語ります。
行動によってつくられたものだけが、現実のなかで息づいていく。
だからこそ、
「こうありたい」という願いがあるのなら、
どうか、それに向かって少しずつ動いてみてください。
あなたという人は、そのすべての
「選び方」と「歩き方」の積み重ねでできているのですから。
終章|「思い」ではなく、「歩んだ道」が、あなたをつくる
「自分とは、どんな存在なのか」
「私は、どこへ向かおうとしているのか」
そんなふうに立ち止まってしまう日も、きっとあると思います。
けれど、そのとき思い出してほしいのです。
自分とは、何を考えたかではなく、どう動いてきたか──
その軌跡が、いまの自分を静かに形づくっています。
そしてもうひとつ、大切なのは、
「どんな自分になりたいか」を見つめて、その方向へ歩き始めること。
誰かに決められたイメージでもなく、過去の失敗でもなく、
これから選んでいく一歩一歩が、“自分”という存在を少しずつ編んでいきます。
どうか焦らずに、比べずに、
ゆっくりでも、自分の歩幅で動き出してみてください。
よければ──
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